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東広島「2008酒まつり」

2008.09.03

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毎年10月に行なわれている東広島市の「酒まつり」、今年も10月11日(土)・12日(日)に開催され、弊社も出品します。
平成2年から始まったこのイベント、会場の西条中央公園には全国の地酒約900銘柄が一同に集まり、例年20万人が来場するという、そのスケールの大きさに圧倒されます。

日本で唯一お酒に関する国の研究機関である「独立行政法人 酒類総合研究所」があることでも知られる東広島市、酒どころ広島県が活況を呈している様子が伝わってきますが、実は私にとっても広島県は大変思い入れが深い場所であります。
と申しますのも、私が公私ともどもお世話になっている若手の蔵元が何人か広島県にいらっしゃるのです。
福山市「天寶一(てんぽういち)」、呉市「宝剣」、東広島市「富久長」、東広島市「加茂金秀」、これらの蔵元がその方々なのですが、皆さん経営者兼杜氏あるいは製造責任者として日々邁進されています。

私がこの方々と知り合ったのは数年前なのですが、いつもお目にかかるたびに日本酒に掛ける思いや製造技術のあれこれを教えて頂き、そして話すたびにたくさんの勇気と元気を頂戴しております。
毎年一度は、以前このブログでもご紹介した上田市の隣に位置する青木村田沢温泉「ますや旅館」に皆さんお越し下さり、名湯や素晴らしい料理を堪能しながら公私入り混じっての様々な話題で盛り上がります。
逆に2年前には、ぜひ一度広島まで勉強に来ないかというお誘いを頂いて私が広島の地に赴き、皆さんの蔵をひとつひとつ見学させて頂きながらたくさんの事を学ばせて頂きました。

かような訳で、私にとって広島とは、またひとつ思い入れの深い県であります。
余談ですが、尾道市を見下ろすようにそびえる山の頂上にある千光寺公園、そこから眺めた瀬戸内海の素晴らしい景色は忘れません。

苦汁の決断

2008.08.26

秋を目前に向え、清酒はいよいよ「ひやおろし」の時期になって参りしまた。
「ひやおろし」とは、冬に造った清酒をひと夏越えて寝かせ、秋口に入ってほどよい熟成状態で出荷する清酒のことを言います。
そして、酒税法上の厳密な決まりはありませんが、通常は、お酒を搾った直後に一度だけ「火入れ」をして出荷前には「火入れ」を行なわない「生詰」の状態のものを指します。

ちなみに清酒は普通、搾った直後に一回、そして出荷前にもう一回、合わせて2回「火入れ」と呼ばれる加熱処理を行います。
対して、一度も「火入れ」を行なわないものを「生酒」と呼び、搾った直後の「火入れ」は行なわず出荷前のみ「火入れ」を行なうものを「生貯蔵酒」と呼びます。
「生酒」「生詰酒」「生貯蔵酒」の違いはそこにあります。

さて、その「ひやおろし」ですが、弊社は今年も悩んだ末に発売を見送りました。
今「ひやおろし」は清酒の需要拡大のために、長野県酒造組合も発売日を9月9日に統一するなど業界上げての取り組みとなっています。
ですので当然弊社としても追従しなければならないのは山々なのですが、ではなぜ発売を見送ったか?
「ひやおろし」として製造・貯蔵したお酒がないからです。

上で申し上げた通り、「ひやおろし」の定義は「ひと夏越えて熟成したもの」そして「生詰酒」、たったこれだけですから、この条件に合致するお酒はもちろんあります。
でも、仮にその商品に「ひやおろし」の肩書きを付けて発売した時に、従来の商品と何が違うのか、この説明を自信を持ってすることができないと思ったのです。

例えば同じお酒でも、通常は冷蔵貯蔵しているものを、「ひやおろし」で出荷することを念頭に置いて一部を常温で熟成した、そしてその結果秋にこそ飲んでふさわしい味わいに熟成した、これならば胸張って商品として出荷できます。
そして多くの蔵元さんは、方法は違っていても、このように「ひやおろし」として出荷することを目的として、それ用のお酒を貯蔵管理している事と思います。
弊社は少量少品種のため、特に特定名称酒は一種類の数量が限定されていることもあって、それを更に「ひやおろし」として枝分けするという事が物理的にも気持ちの上でも困難なのが実情です。

ただ、「ひやおろし」を出してほしいというお客様の声がここに来て多く届いているのも事実です。
今年はこのような苦汁の決断をしましたが、来年は秋口にたっぷりと旨味が乗った「ひやおろし」のお酒を前向きに検討していきたいと思っています。

ささやかな出来事

2008.08.19

先日、所要で福島県いわき市郊外まで足を運びました。
1日の日程を終え、宿泊したのは海沿いにある小さなビジネスホテルでした。
ビジネスホテルといっても、どちらかというとちょっとお洒落でアットホームなペンションという感じで、スタッフの女性も笑顔を絶やさないフレンドリーな対応で我々を出迎えてくれました。

さて、夕刻到着した我々一行は夕食を取るため1階にある食堂に出向きました。
連れのみんながビールや焼酎など飲みたいアルコールを注文する中、私だけひとり無理を承知で「日本酒をお燗できませんか?」と頼んでみました。
夏の真っ只中で、ましてやここは小さくてペンションのようなビジネスホテル、お燗なんて頼んで驚かれて、もしかして断られるかもと恐る恐る聞いてみたのですが、その女性は軽く頷いて厨房に入って行き、しばらくして出てきた彼女の手には徳利とお猪口が握られていました。
「いわき市の地酒○○です。とってもおいしいですから飲んでみてくださいね」
笑顔でそう言われて手渡されたお酒は適度なぬる燗で、確かにうまみが滑らかに口中に広がる、とてもおいしいお酒でした。
たぶん彼女自身がしっかり湯せんしてきてくれたものと思われます。
そのおいしさは、お酒そのものに加えて、その女性の温かな気持ちも合わせて感じられたものだったと思います。
「お酒」と頼むと銘柄も告げずに持ってくるお店が多い中、当たり前のこととはいえしっかりと銘柄を伝え、しかもそこにさり気なく暖かなひとことを添える、たったそれだけのことでおいしさや楽しさは倍増することを実感したひとときでした。
結局そのあと何本もお銚子をお代わりしてしまい、部屋に帰ってからもみんながわいわいと賑やかに話に昂じる中、私ひとり睡魔の向こうに引きずり込まれていったのでした。

ちなみに翌朝、早々に起床してロビーでテレビを見ていると、目の前に缶コーヒーの販売機があるにも関わらず、件の女性がわざわざそこにいる全員にカップに注がれたホットコーヒーを出して下さいました。
つまりここはそういうホテルなんだなと、何だか改めて心温まる思いに包まれました。

中上健次

2008.08.12

8月12日、今日は私が敬愛する作家中上健次(なかがみけんじ)の命日です。

中上健次は紀伊半島のほぼ突端に位置する新宮市で生まれました。
被差別部落の出身で、加えてその家系は大変複雑であり、その事が生涯を通じて彼の作品に色濃く反映されました。
新宮高校時代は不良少年である傍ら圧倒的な読書量を誇り、上京後は新宿のジャズ喫茶に入り浸りながら小説を同人誌に投稿する日々でした。

その後も羽田空港で肉体労働に従事しながら、原稿用紙と万年筆を常に携帯して喫茶店の片隅で小説を書き続け、それについて中上自身が「俺の小説は喫茶店文学だ」と語っています。
「俺は汗で稼いだ金しか認めない」と言って、小説で稼いだ印税を捨てるように新宿のゴールデン街で使い果たしていたのもこの頃です。

新聞配達をしながら爆弾のいたずら電話を無差別に掛けまくる少年の姿を描いた「十九歳の地図」が芥川賞候補となるとともに栁町光男監督によって映画化され、作品は小説同様大きな評価を得ました。
そして、中上の被差別部落出身という出自や彼自身の複雑な家系を、紀州新宮という土地の特殊性と絡めて描いた私小説的作品「岬」で、ついに芥川賞を受賞。
その濃密で圧倒的な文体は、続編として描かれた「枯木灘」「地の果て至上の時」と共に3部作として絶大な支持を得ました。

その後も中上は、紀州と血族の問題に一貫してこだわり、「地と血への回帰」をテーマに精力的に作品を発表し続けました。
しかしそんなさ中、中上が腎臓ガンを患っていることが発覚、地元紀州に戻り闘病生活を続けましたが46歳の若さでこの世を去りました。

私が中上健次に初めて出会ったのは高校時代、「ジャズと爆弾」という村上龍との対談集でした。
その無頼性にいっぺんで中上に魅了されてしまい、その後は中上の小説を読み漁りました。
今でもぼろぼろになった「岬」や「枯木灘」が私の鞄の片隅に入っていて、折に触れページを開いています。

数年前には、中上が生まれそして数々の小説の舞台となった新宮という街をぜひ見てみたいと、妻と一緒に新宮市を訪ねました。
その時は事前に問い合わせをした新宮市役所観光課の方がわざわざ出迎えて下さり、中上健次にまつわる場所の数々…彼が小説で「路地」と呼んだ一角、「火まつり」の舞台にもなっている神倉神社、新宮市立図書館内にある中上健次資料収集室、そして中上の墓に至るまで、同行してご案内頂きました。
海と山とに囲まれたその小さな大地は、確かに中上が小説で描き続けた息吹が感じられました。

また翌年には、2月6日の「御燈祭り(=火まつり)」の日に新宮市を再訪。
午後8時、山の中腹にある神倉神社から境内の門が開かれると同時に、松明(たいまつ)を持った白装束の男たちが一斉に急な石段を駆け下り、山の夜闇の中に松明の火が一斉に灯る光景は、男祭りの荒々しさとあいまって鳥肌が立つ思いでした。
この光景は中上健次脚本で同じく栁町光男が監督した映画「火まつり」でも描かれ、観る事ができます。

今年はお休み

2008.08.08

例年この時期に岩手県花巻市で1週間にわたって開催される「南部杜氏協会夏季酒造講習会」。
毎年参加していたのですが、今年は日程が一週間遅れて月末月初にまたがってしまったため、残念ながら出席できませんでした。
そんなわけで今年は無念のリタイアだったのですが、昨年までの経験から、この講習会の様子だけでもお伝えしたいと思います。

会場は「石鳥谷生涯学習会館」という3階建ての大きな公民館です。
旧石鳥谷(いしどりや)町は数年前の広域合併で花巻市となりましたが、この石鳥谷はまさに南部杜氏の里で、この会館のすぐ横に「南部杜氏協会」の本部があります。

講習は「特科」「研究科」「杜氏科」の3クラスに分かれていて、初年度の講習生はまず「特科」を受講します。
3日間にわたって酒造の基礎をみっちり学んだあと、最後に試験が実施されます。
この試験に合格して初めて、翌年から1クラス上の「研究科」に進む事が許されます。

さて、その「研究科」、私も現在このクラスに所属しているのですが、この「研究科」には何年でも在籍することができます。
講師として、各国税局の鑑定官をはじめとして酒造の分野でトップを走る先生方をお招きし、毎年刻々と変化する酒造の最新知識と情報とを学んでいきます。
「酒造全般」「酒造米」「麹」「酵母」「品質管理」「分析」「酒税法」・・・その内容は常に新鮮で、内容も毎年変わるので、何年受講しても飽きる事がないのです。
講師の先生の迫力ある「生」の解説、そしてパソコンからスクリーンに次々に映し出される画像の数々、それらをひとつたりとも聞き逃がさず見逃すまいと、会場内は常に緊張感に満ちています。

そして「研究科」の上に、酒造の頂点を目指す「杜氏科」があります。
私は受講したことがないので詳しい講習の内容は分かりませんが、教室は例年少数精鋭で、そこで試験に合格した人が晴れて「南部杜氏協会」より「杜氏」として認定されます。
試験の内容は、酒造の専門的な知識に留まらず、酒造り集団のトップとしてのリーダーシップのあり方、さらにはこれまでの酒造の経歴までが加点対象としてチェックされた上で合否の判定が下されます。
毎年張り出される合格者名簿を見ると「杜氏」となれるのは10名前後の厳しい門です。

そのような講習会の場に、学びの場を求めて、全国からたくさんの蔵元関係者が集まってきます。
講習会で学ぶ内容はもちろんですが、そんな場に身を置くことそれ自体が大きな刺激となって、明日への大きな活力をたくさんもらってくるのです。

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