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文章は理論なり

2012.11.02

前回の流れでもう少し書かせて下さい。

高校時代、授業に付いていけず落ちこぼれた私は、授業中こっそりと中上健次や開高健や村上龍といった作家を読み耽る毎日でした。
さらには高校3年にもなると授業そのものがかったるくなって、授業をさぼっては図書館に入り浸るようになりました。

受験の結果は当然のごとく失敗。
浪人生として東京の代々木ゼミナールへ通うようになり、そこで私は大いに影響を受ける事となる1人の講師と出会いました。

堀木博礼先生。
現代国語の講師で、代ゼミでも1・2を争う人気講師でした。
知っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

堀木先生の日頃の教えをひとことで要約すれば「文章は理論」、これに尽きます。

それまで現代国語の試験といえば、感覚で解答するのが当たり前で、例えば「この時の主人公の心理を述べよ」とか「ここでの筆者の主張を100字以内で記せ」とか、ほとんどの設問は感覚で答えているのが常でした。

しかし堀木先生は、文章はすべて理論で成り立っているのだから理論立てて考えなさい、そうすれば自ずから正答は導き出されます、と繰り返し諭しました。
それは私にとって、まさに「目から鱗」の教えでした。

堀木先生の教えを忠実に守ると現代国語の偏差値は何と30も上がり、堀木先生の「小論文ゼミ」では私の書いた文章が模範解答で配られました。

さらに堀木先生の「近代文学史」の講座、これが輪を掛けて面白いものでした。
受験という枠にとらわれない数多くの史実やエピソードを教えて下さり、文学への興味がより一層増していきました。

ひとつ例を挙げます。

「古事記」から現代まで続く文学の流れを2つに分けるとすると、それは明治38年が境といってよい。
その年は島崎藤村が「破戒」を発表した年であり、それはまさに自然主義文学が誕生した年ともいえる。
自然主義とは即ち「現実暴露の悲哀」をテーマにしたものであり、それまでの「文学=娯楽」といった流れとは明らかに一線を画すものである。
ただし藤村の存在だけでは自然主義の確立は不十分であったが、その直後に田山花袋が自身の体験をベースにし、主人公が親戚の女の子が残した蒲団の匂いを嗅いでさめざめと泣く「蒲団」を発表し、それが広く支持された事によって、自然主義文学は隆盛を誇るようになっていった。
その後の近代文学は、要約すれば「自然主義」対「耽美派」「白樺派」「余裕派」等の「反自然主義」という、いわば「自然主義」を軸とした流れの中で発展していった。

こんな感じです。
あれから30年、今も堀木先生は教鞭をとられていらっしゃるのでしょうか?