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惜別の日

2010.04.03

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去る3月31日、ひとつの大きな別れがあれました。
東京の渋谷東急本店前にあるクラシックバー「West End(ウエストエンド)」。
私が10年以上通い詰めたこのバーが、この日をもって閉店を迎えたのでした。

小さなビルのエレベーターを3階で降り、初めてこのお店のドアを開けた日のことは今でも忘れません。
その時飲んだカクテルの美味しさに惚れ、暖かな笑顔とサービス精神に富んだバーテンダーの前田さん(今もまだ40代前半のイケメンです)のお人柄に惚れ、そして何とも心癒されるお店の空気に惚れて、折に触れその日の締めの一杯を、深夜の遅い時間に訪問して楽しむ毎回でした。

初めてお店を訪問した日、前田さんはじめスタッフの皆さんが少しでも時間が空くと、所狭しと棚に並んだお酒のボトルを1本1本丁寧に磨き上げていて、いつ行ってもピカピカに輝く数え切れないほどのボトルは、まるでこのお店の心意気を象徴するようでした。

思い出は尽きません。

通い始めた頃、前田さんのお薦めで飲んだカクテル「ホーセズネック」。
たかがブランデーとジンジャエールを混ぜただけのカクテルがどうしてこんなに美味しくなるのか、ただただ驚愕でした。
以後私がこのお店で飲む最初の一杯は、ほぼ決まって「ホーセズネック」。
その日の気分によってベースをブランデーからスコッチに変えて頂く楽しみを覚えたりもして、オーダーすると前田さんから「今日はブランデーにしますか?スコッチにしますか?」と聞かれて思案する時間が楽しみでした。

ある時、前のお店で相当に飲んでしまい、這うようにして辿り着いた「West End」。
かなり酔ったとはいえここはバーのカウンター、表向きは毅然としながらも実は「今日は凄まじく喉が渇いたな~」なんて思っていたところに、「まずお水でも飲まれます?」という言葉とともにスッと出されたお冷やのタンブラー。
まるで心の内まで見透かされているような細やかな心配りにノックアウトされた瞬間でした。

私の妻もこのバーが大好きで、このお店のおかげで彼女はラムのおいしさに目覚めました。
また、長女が高校に合格した昨年の春、お祝いも兼ねて東京を訪れたその晩に、フォーマルな大人の世界を垣間見せようと思って連れていった一軒がこのお店でした。
もちろん事前に前田さんのお許しを得た上でお伺いしたのですが、カウンターの片隅できれいに彩られたノンアルコールカクテルを傾けたひとときは、きっと彼女の心の片隅に輝く思い出としていつまでも色づいているでしょう。

振り返れば振り返るほどこのお店で過ごした数々の思い出が詳細に蘇ってきて、涙が溢れそうになります。

3月31日の閉店の日は、午後10時過ぎにお店を訪れました。
一歩足を踏み入れると、普段は落ち着いた雰囲気の店内は案の定立錐の余地もないほどの混雑で、全員が喧騒の中で最後のお酒を楽しんでいました。

あわよくば私も最後の一杯を楽しめればと思っていたのですが、満員電車なみに混雑した店内と前田さんの忙しさを目の当たりにするととてもそんな雰囲気ではありません。
ただそれはある程度予想がついていた事ですし、今日は「West End」と前田さんへの感謝の思いさえ伝えられればと思っていましたので、忙しいさなかの彼をちょっとだけ入口に呼び出してその気持ちを伝え、最後に固い握手をしてお店をあとにしました。

大好きだった「West End」はこの日をもって長く短い歴史に幕を閉じました。
でも逆にこの日を出発点として、前田さんとはまた新たなご縁が出来ることを心から願って止みません。
最後の一杯を飲まなかったのは、そんな思いへのささやかな「おまじない」の意味合いもこめていたのかもしれません。


写真:入口のドアに掛かっている小さな額縁